ユーロスペースにて

土曜日は久々に映画館に足を運び、ミヒャエル・ハネケ監督作『ベニーズ ビデオ』を鑑賞してまいりました。しかもモーニングショー、パチ沼としたことが朝8時に起床してa.m.の時分から若者の街シブヤを悠々と闊歩させていただきました。否、むしろ間に合うかギリギリガールズ状態、競歩にてユーロスペースへまっしぐらと。結果汗だくと。

『ベニーズビデオ』*日本最終上映
1992年/オーストリア/35mm/105分/カラー
出演:アルノ・フリッシュ、アンゲラ・ヴィンクラー
てさろにき映画祭国際批評家連盟賞受賞作。家庭用ビデオで撮影した豚の屠殺シーンに魅せられた中学生のベニーは、偶然知り合った少女を衝動的に殺害してしまう。その模様を撮影したビデオを見てベニーの両親が選択した道は?人間の深奥に眠る闇を活写する。

なんとか間に合いそそくさと着席、額の汗も引かぬ間に上映開始です。で、のっけから豚の屠殺シーン炸裂。脳天直撃by銃弾シーンがその後も度々スローモーションで繰り返し映し出されるのだが、西洋人が豚の屠殺に対して抱くイメージは我々日本人が抱くそれとは異なったものであると考えられます。肉食中心の西洋では豚の屠殺はごく当たり前の行為であり、そこにいわゆる残虐性を見出す西洋人は少ないのではないでしょうか。ということは、問題の「豚の屠殺シーン」がすなわち人間の残虐性(のみ)を象徴しているとは考えにくい。主人公のベニーは偶々知り合った少女を、まさに衝動的に銃殺してしまう。ベニーの台詞で何度も言わせるように、動機は「わからない。なんとなく。」である。この作品中では頻繁にテレビのニュースやラジオの音声が流されるのだが、その殆どが冷戦後の紛争や闘争に関連するものであり、それらとベニーによる殺人という行為が重ねられる。
化学の中和反応のように、一滴の雫を投じることで酸性から塩基性へと劇的に変化してしまうような、それと同じ現象が人間の心理状態においても起こっているのではないか。一見些細な一滴の雫(豚の屠殺)によって、これまで保たれていた秩序が一気に崩れ、反対側へと傾いてしまうといったような。ベニーの殺害を知ってしまった両親は息子を海外に連れ出し、それまで理性・規範の象徴として描かれていた父親が死体をバラバラにして処理、完全にその罪を隠蔽する。善から悪、ある相からある相への変化がいかに簡単なものかと。いやはや、人間のなかの理性やら信念やらがほんの些細なキッカケで一気に崩壊する様が恐ろしく感じられました。ベニーの動機が「なんとなく」だったように、その相変化が無意識に進行するのがまた恐ろしい。こうした個々人のもつ「無意識の狂気」があるキッカケによって一斉に発露する状態が戦争というものなのだろうなと思いました。
もしかしたら続く!