お盆的考察

巷間では倖田來未が大変にもてはやされている様子であるが、その人気の訳を示すキィワードが「エロかっこかわいい*1」であろう。エロいかつカッコイイかつカワイイ。よくよく考えると共通要素がなさそうなのだが、まァ意味するところはつまり「エロい→露出系ファッション・カッコイイ→ダンスや歌が上手・カワイイ→性格・外見」てなことだろう。すなわちこの3つが揃わなければ「近頃流行りの女の子」にはなれないわけで、ぽっちゃりさんがウッカリ露出したところでただのエロ、否エロにさえなれないかもしれんのであーる。せつNIGHT!
ハイ、というわけでここでいう「エロ」とは単に「露出」を意味していたが、いわずもがな、「エロ」はもっと多義的な言葉であり、というより言葉はそもそも多義的なのだが、今回は便宜上「陽なエロ」と「陰なエロ」の2つに分類してエロについて考えていきたいと思う。(何故考えなければならないのかと問われるなら「そこにエロがあるから」と答えましょうぞ。いや、スイマセン、本当は暇だからです。)
例えば「セックス」VS「性交」。いきなり微妙な判定だがパチ沼基準でいくと前者が陽で後者が陰。さらに「肉体関係」の方がより陰である。何故か単語に「肉」が付くと途端に陰エロワードになるのだが(肉+バナナとか)先日ダカーポに載っていたしょーもない官能小説に「肉洞」って言葉が出てきて衝撃を受けた。つーか陰すぎるよ、肉洞て!この他「オナニー」VS「手淫」、「キス」VS「接吻」、「ヤリマン」VS「淫乱」などなど、漢字で表記したほうが陰なイメージになるのも面白い現象である。
まァこうした単語レベルでの議論は本質的ではない気がするが、小説やら映画やら、あるいは実生活においても陰なエロを醸し出すのは大抵禁欲的なもの(こと)を含んでいるね。すなわち「エロ(快楽)=悪」を前提とした場合にこそ陰なエロが産み出されるのだと。以前mamiさんからお借りして読んでいた川端康成の小説「眠れる美女」はその意味で陰なエロ、老人の快楽の影に潜む罪悪感がより一層そのエロスを際立たせている。その時ちょうど並行的に読んでいた舞城王太郎の「阿修羅ガール」はまさに対照的で、主人公の女子高生アイコが好きでもないクラスメイトとうっかりセックスした後お風呂に入り、ずっと思いを寄せている男の子を思い浮かべながら「あー陽治とセックスしてぇー」と言う場面があるのだが、これぞまさに陽なエロといえよう。アイコにとってセックスは悪でも恥でもない。セックスは愛情表現、手段に過ぎないのだ。サドなどは一見エロの解放を謳っているように見えるが、やはり陰な印象を受けるのはサド自身自らの小説を背徳的だと認識しているからなのかもしれない(「悪徳の栄え」なんてもうタイトルで「悪」って言っちゃってるし)。
ああ結局何がいいたいんだか・・・まとまらねぇ。そうさね、まァ要するに倖田來未は陽なエロだってことか。「エッチは後ろめたいこと!破廉恥!」と考えているような女の子こそ陰なエロに走りがちですよ、ええ。男性諸君、気になっている女子が陰エロか陽エロか知りたかったらとりあえず目の前で「セックス」と言わせてみるのが一番ではないでしょうか。ちなみにパチ沼はマックス陽エロいです。これこそまさに言わずもがなか・・・。

*1:エロという響きとカッコで思い出した。私が小6の時通っていた塾に伊澤先生という算数の先生がいたのだが、当時おそらく40代前半でなかなかの男前だった・・・がしかし中身はふにゃふにゃテキトーでしかも滅法エロい。小学生相手にも容赦なく下ネタを披露していた。ステキ。で、彼は毎度「私の名前は・・・」とかいいながら黒板に『(伊)澤』と表記、でもって「エエと、ネ、これで「カッコイイザワね。てへ♪」なんて事をブリッコ全開でのたまうのですよ。私が彼に恋したことはいうまでもない。タイプの男の原点は彼です(いい加減でエロいダメ男、だけど可愛いの・・・ぽッ)。バレンタインデーにオッパイチョコを買ってきたのだが恥ずかしくて渡せなかったなァ・・・嗚呼ほろ苦い思い出!