檸檬

これで三冊目となる「檸檬」を買った。いずれも新潮文庫のものだが、今回のは表紙の絵柄が違っているように思う。初読は確か中学生の頃だったか。最後に手にしたのはもう6、7年は前のことだろう。先日ふらりと立ち寄った街の本屋で目にし、何故だか無性に読みたくなって購入したのだ。もちろん我が家のどこかに同じ文庫本が存在することは知っていたが、それを探し出す前に、今ここでどうしてもそれを買わなくては、という衝動に駆られたのだった。

早速総題でもある短編「檸檬」を読んだ。無論おおまかな筋は知っていたし、文章の雰囲気も覚えているつもりだった。梶井氏があまりに原人似である事実に衝撃を受けたあの頃の気分もありありと思い出せる(思春期の淡い夢想が打ち砕かれた、あれが失恋体験の初めではなかったか。)

そうしたもろもろの記憶が刷新されるほどの、たった九頁の奇蹟。
アア、これは宝物にしよう、この小説は。動悸がする。小説を読んでこれほど胸が高鳴ったのはいつ以来だろう。
巻末に「『檸檬』は氏の観念的焦燥の追及する単純性或いは自然性の象徴ではない、寧ろ氏自身の資質である。・・・氏の焦燥は知的というよりも鋭敏な感受性が強いられた一種の胸苦しさである」と小林秀雄の批評が引いてある。簡にして要を得た文章である。事実、その繊細さと力強さが共存するしなやかな感覚が織りなす言葉に、私はえも言われぬ息苦しさすら感じたほどだった。

あのびいどろの味程幽かな涼しい味があるものか。私は幼い時よくそれを口に入れては父母に叱られたものだが、その幼時のあまい記憶が大きくなって落魄れた私に蘇ってくる故だろうか、全くあの味には幽かな爽かな何となく詩美と云ったような味覚が漂って来る。

何か華やかな美しい音楽の快速調(アツレグロ)の流れが、見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面――的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まったという風に果実は並んでいる。

その重さこそ常づね私が尋ねあぐんでいたもので、疑いもなくこの重さは総ての善いもの総ての美しいものを重量に換算してきた重さであるとか、思いあがった諧謔心からそんな馬鹿げたことを考えてみたり――何がさて私は幸福だったのだ。


言葉の力、というキャッチコピーが何を意図して盛り込まれたのか私は知らない。ただ、言葉には確かに善さ、美しさをあますことなく表現する力があるのだ、ということをこの小説は示している。

檸檬 (新潮文庫)

檸檬 (新潮文庫)