ランジェリー

私の母はトシコという名の巨漢…否、巨婦である*1。今日はトシコ生誕53周年を記念し、KBをして「パンチョ伊東」と呼ばしめたトシコのパンティー、すなわちパンツ・オブ・パンチョの話をさせていただきたいと思う。(注:食事中の方はご遠慮願います。)
その前にまずトシコが如何にして「パンチョ」になったのか――この問題は我が思春期における最大の関心事だった――についての考察を述べたい。
トシコは長女で3歳下の気弱な弟が一人おり、神経質な母親と浮気な父親に育てられた。AB型で、高校は私立のお嬢様学校に無理やり入学させられたが、お嬢様学校特有の校則の厳しさに馴染めず反抗的な態度をとるようになる(その都度親が呼び出され厳重注意を受け、母親は激怒、父親が陰で甘やかすという構図ができあがる)。トシコは元来負けん気が強くわがままで、また内向的でもあったため女友達があまりできなかったが、その反面男友達は多かった。当時から不細工ではあったが、プライドだけは高かったので男に媚を売るようなことはなかった。
母親は出来損ないの姉を疎んじ、弟を溺愛した。父親はしばしば外の女と遊んでいたもののトシコには目をかけていた。その頃トシコは高校生の分際で当時流行っていたディスコに通っていた。踊ることはなく、ただ親の金でウイスキーなんぞを飲んで一人過ごした*2。不細工の癖に何様のつもりだろうか。こうしてトシコは孤独を愛するファザコン&高慢ちきな女へと育っていくのだった。
学校をサボってばかりいたので当然大学には入れず就職のため上京、コムデギャルソンに入社し販売員となる。そこで女同士の熾烈かつ陰険な闘いが繰り広げられることとなり、トシコはますます可愛くない女へと変貌。さらに武士は食わねど高楊枝的生活によって激ヤセ、今では到底想像もできないほどスレンダーな体を手に入れた。そしてくっついては離れるを繰り返していた我が父とデキ婚(デキたのがもれだけども)、仕事を辞め主婦業に専念するも、家事などやったこともなくストレスフル、あれよあれよという間に気がつけば80kg近くまで肉を蓄えるまでになったというわけだ。以降デブ道を突き進んできたトシコの半生。嗚呼、性悪パンチョはこうして誕生したというわけだ!
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とまァ前置きが非常に長くなってしまい恐縮だが、本題はここからである。
トシコはエロパンツしか履かない。そして高校生以来ノーブラだ。上記のようにトシコは30歳の時にはすでにパンチョ体型だったのだが、そんな彼女のランジェリーボックスは色とりどりの(原色系)紐パンやらレーシーなパンツやらで溢れかえっていた。繰り返し申し上げるが、トシコは完全なるデブである。一方パンツは一般的なサイズより小さく露出度が高めなものばかりだ。当然のことながらパンティは伸び伸びに伸ばされ、はち切れんばかりになっていた。そして真に隠されるべき部分のみが覆われているという非常に危うい均衡を保っているのだった。考えてみて欲しい。貴女、あるいは貴方の彼女のパンティを、まわし代わりに履いている相撲取りの姿を。
ある日父は洗濯物の山からトシコの紐パンを手にし、ため息混じりに話しかけた。
「なァ、思えばお前も可哀想だよな。まさかこんな人に履かれるとは思ってもいなかったはずだよ…。」
またある日、当時部屋で飼っていたマルチーズ(純平くん)が、いつも玩具として遊んでいる靴下のかわりに、あろうことか使用済みのパンツ・オブ・トシコを銜えてやってきたことがあった。純平は嬉々としながらソファの上をパンツとともに走り回る。その後をトシコが妙なハニカミ笑いとともに追いかける。
「こら、返しなさい!純ちゃん!」
純平は臭いものを好む傾向にあった。パンツに食らいついたまま意地でも離さない。とはいえレースをあしらった繊細なパンツを無理矢理引き離すこともできない。もはや純平がパンツと戯れるのを見守る以外術はなかった――。
そんな中父が風呂から出てきたのだが、そのニヤニヤ顔を見て私は悟った。あの男が、純平に使用済みパンツを与えたに違いない!トシコが純平の悪戯について文句を言うのを「あらァ、ヤダ!純平エッチ!」などと同情してみせる父の横顔を見て、私は変態とだけは結婚しないぞ、と固く心に誓ったのだった…16の夏。
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53歳になった今も、トシコは紐パンを履き続けている。おそらく死ぬまで紐パンだろう。彼女が寝たきりになって要介護な状態になっても、紐パンだけは欠かさず履かせてあげたいと思う。そう、紐パンは容易に着脱可能なのだ。そんな私もひとつだけ紐パンを持っています。嗚呼、DASOKU!

*1:先日帰省した折に「ママ生理あがっちゃったみたい!てへ!」との報告があったので「漢」でもまァ差し支えないといえば差し支えないが…。

*2:同じフロアで踊りまくっていたアホ丸出しの高校生、それが後にトシコをプールに沈めることとなる我が父である。